この記事は、2004年5月31日に、旧"日々思いつること"に投稿したものを再録したものです。
元の記事はきれいさっぱり吹っ飛んでしまったので、こちらを原本とさせてください。
なころぐ:Blogと茶道の共通点に触発。
私も茶道経験者なんですけど、blogに茶道の精神を持ち込むのは斬新だと思いますね。
といいますか、あまりにもあたりまえすぎて、そんな発想すらできなかったというべきなんでしょうか。
blogに限らず、個人もしくは団体でWebサイトを構築する場合においては、
制作サイドは訪問者に対して、何らかの有益な情報を提供しようとつとめていると思います。
(それは、狭義での"有益な情報"だけでなく、精神的に働きかけるもの・・・
笑えるとか、和めるとか、泣けるとか・・・も含んでいるものでしょう)
これは実生活における人と人とのふれあいの中でも当てはまることであると考えています。
(といいますか、最近のニュースとか見てると、ごくごくあたりまえの事ができてない、
「利休七則」のカケラもない人(というか事件)ばっかり・・・。)
そうすると、もてなしという心、人と接するという心は、webにおいても実生活においても、
茶道の心「和敬清寂」に通じる・・・いや、和敬清寂そのものなんじゃないかと思います。","調和、尊敬、清楚、寂(さび)。
美意識がどうこう、哲学がどうこうではなく、
ただ相手に対して調和の心と尊敬の心を、
そして自分に対して常に清楚な心と寂の心をもってすれば、
それは最上のもてなしとなり、そしてそれは人としてごくごくあたりまえの事になる、と考えます。
はい、私は和敬清寂の心とはまだまだほど遠いところにおります・・・。反省。
>でも、「一定の形式に沿ってサービスを提供する」
>という所も、似ている気がするんです。
茶道が「一定の形式に沿ってサービスを提供する」
という考えをお持ちなら、それは間違いだと思います。
ご存じの通り、茶道には主だって3流派(表千家・裏千家・武者小路千家)が存在し、
その3千家において、作法は大きく異なります。
現在、その作法は一連の形式としてまとめられてはいますが、元々は一つ一つの作法として、
はっきりとした手順が定められているわけではありませんでした。
元々が、心で点前をし、心で茶をいただくというところから来ておりますので、
作法はどうあれ、その動きの一つ一つに「和敬清寂」の心がこもってさえいれば
それはそれでその人なりの作法となり、手順となるのです。
昔のお話なんですけど、茶道の作法を何一つ知らない侍が茶席に招かれたとき、
そのときは精一杯の心を込めて茶をいただいたといいます。
しかし、そのときに恥をかいたと思った侍はその後茶道の稽古に邁進し、
作法を完璧に身につけて、再び昔招かれた亭主の茶席についたそうです。しかし、
その亭主に言われたことは、「何も知らなかったときの方が茶人らしい」
・・・心がこもっていなければ、作法などただかたちだけの踊りに過ぎないという戒めです。
一定のかたちでサービスを提供するというならば、芸者さんのほうが言えるんじゃないかな・・・
と、私は思いますけれどね。(別に卑下する意図は全くありませんので)
余談。利休七則について。
「茶は服のよきように点て」「炭は湯の沸くように置き」「冬は暖かに夏は涼しく」
「花は野の花のように生け」「刻限は早めに」「降らずとも雨の用意」「相客に心せよ」
・・・説明の必要はないと思いますけど。
お茶は飲みやすく点てなさい。炭は湯が沸くようにくべなさい。
(自分も相手も)過ごしやすくなるよう配慮しなさい。花は自然に生けなさい。
時間は余裕を持ちなさい。万が一の用意はしておくものです。・・・相手の事を一番に考えなさい。
利休は、人間としてこうしたごくごくあたりまえの気遣いがなかなかできるものではないのです、といい
もしこれらが完璧にできる人がいるならば、私が弟子になりましょうとまで言ったといわれています。
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